イマージュの経験 ――バタイユ『先史時代の絵画 ラスコー芸術の誕生』読書ノート①
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一回読んだので
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バタイユの造形芸術に対する関心
1920年代〜30年代
『ドキュマン』などにある写真や形象に関する論考
戦後、晩年は以下の三つの芸術にまつわる本を書いている
『先史時代の絵画 ラスコー 芸術の誕生』
①『ラスコー』では芸術のはじまりを
②『マネ』では対比的に近代芸術の出発を検討している
この二つを併せて芸術の歴史を大きく総括しようとした
『ラスコー 芸術の誕生』は、ニーチェ『悲劇の誕生』を意識していると思われる
1949年に経済学の視点から『呪われた部分』を刊行し、それをより拡大して宗教や社会を含み歴史全体を包括する『至高性』を書き続けている。その流れと呼応させて芸術も捉えられようとしていた。本論考では、この視野の中で『ラスコー』を取り上げる。
『ラスコー』を中心にしてバタイユの立論の説明
ラスコーの住人
そこで現在言うような人間が現れた
二つの決定的な事件が世界の流れを区切っている。最初のものは道具(あるいは労働)の誕生であり、第二のものは芸術(あるいは遊び)の誕生である 芸術の誕生には、道具が先行して存在していた
しかし、芸術は道具の所有と、道具を制作することあるいは使用することによって得られる手先の器用さを前提とするばかりではない
芸術は有用な人間活動との関係において言えば、それに対立するという価値を持つ
ばる.iconバタイユは、真の芸術は有用性と対立するものだとよく言っている
バタイユは、芸術はすでに存在している世界に対する一つの抗議と言う
ラスコーの時代は、労働の世界から遊びの世界への移行期
労働の世界から遊びの世界へ
人間は自然に包摂されたあり方を拒否し、自然の外に出ることで、今度は自然を対象と見なして、働きかけ改変することが出来るようになる。人間は自然とは違った世界を作り始める だが、人間はこの形成に満足することができない
なぜなら、人間は自分が拒否したにもかかわらず、自然が生命力を暴力に至るほどまでに充溢させているのを見て郷愁を持つからである
人間は苦しい労働の成果を転倒して、自然に復帰しようとする
祭儀、戦争、記念物の建設、賭け、芸術など
基本は「遊び」(遊びは何かの価値も作り出さない無償の行為)
労働は生命力という暴力的なものを内包する自然を制御することによって守られた世界 だが禁止を一時的に破ったとしても、完全かつ持続的に自然に復帰することは出来ず、それは逆に復帰の不可能の確認ともなり、そのことによって逆説的に労働という人間的な世界の不可逆性が確認される この辺がバタイユの思考の大きな枠組みで、禁止と侵犯の相互作用、聖なるものの意識の形成、動物になお優位を認めていた人間など、『ラスコー』での前半の半分はこういう話とのこと
とはいえ、『ラスコー』はこのバタイユ自身の論理の芸術への応用...で終わらず
ラスコーによってもたらされたのは描くこととして現れた芸術の姿であり、芸術が遊びのエッセンスを含むのであれば、その最初の姿を読み解くことは、人間が人間たる根拠、人間の基本的なかたちを取り出すことにつながるんじゃないかという、バタイユの直観があったナリね。
『ラスコー』については、いくつかの論考があるが、芸術の問題には深入りせず、人類学的なレベルでの分析の把握に留めてしまっているものが多い。その中でも酒井健や江澤健一郎の分析は興味深いが、この論文の書き手である吉田裕さんはそこへの批判もある。描くことの根底には死に対する恐怖があると考えており、論文の終盤ではそこに焦点を当てている。 ばる.icon一旦休憩。ここまでは論文の前段階にすぎない。書くのは疲れるので、イマージュ論や、死の話まで書けるかわからない
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